西洋文明発祥の地と言われる、古代ギリシャやローマ。都市国家や軍隊が築かれ、壮大な戦いが繰り広げられる中、西洋独自の剣が誕生します。「古代ギリシャ軍」における剣の種類や役割、「古代ローマ軍」における代表的な剣や発展について、詳しくご紹介します。
西洋剣の始まりは、中東・アフリカに比べると遅いものの、紀元前2000年頃。この歴史的証明となるのが、北欧のデンマークで出土した特徴的なフリント(岩石)の剣で、おそらくこれは紀元前1700年の北欧青銅器時代初期に作られた物と言われています。
さらに、古代エジプトの青銅器時代に大きな躍進を遂げた製鉄技術が、紀元前1200年以降にヨーロッパヘも伝わっています。こうして、西洋剣は独自の文化と異民族の技術によって進化を遂げていくこととなります。
20世紀半ば、イギリスのある地域で青銅製の剣が大量に発掘されました。なかでもイングランド東部に位置するケンブリッジシャーの遺跡からは、剣を含む6500個以上もの青銅器が出土しており、青銅器時代の西洋を研究するうえで歴史的な発見となりました。
この遺物の中には、「鯉の舌」を意味する「カープス・タン」という剣がありました。カープス・タンは、その独特な形状から発見した考古学者が付けたと言われており、剣身が幅広く先細の作りで、斬撃と刺突のどちらにも使えるタイプの剣でした。フランス北西部を起源とするこの剣は、紀元前9世紀頃の西ヨーロッパで広く使われていたようです。
紀元前8世紀頃、古代ギリシャ人が独自の文化を確立し、民族意識を持つようになると、アテナイ(現在のアテネ)、スパルタなどのポリスと呼ばれる都市国家が誕生し、古代ギリシャは大きな発展を遂げていきました。このような都市国家では「ホプリテス」と言う名の重装備の歩兵が軍隊の主力となって戦い、特にスパルタの重装歩兵軍はギリシャ最強の軍隊だと言われていました。
しかし、最強とうたわれていた彼らにとって剣はあくまでも補助武器でしかなく、主に槍と盾を装備して密集陣形を組んで戦っていたのです。古代ギリシャでは戦闘における剣の価値は低い物でした。
剣の価値は低い物でしたが、それでもギリシャの歩兵達が補助武器として携えていた剣は古代世界の剣に影響を与えるほど優れた物でした。
彼らは主に「クシポス」と言う全長60cmほどの短い直剣を使用し、両刃で木の葉形の剣身は、彼らの主要武器である槍のように突き刺すために使われていたと考えられています。スパルタ軍においては、全長30cmのさらに短いクシポスが使われており、この短剣で戦闘時にとどめを刺していたと言われています。このスパルタ軍のクシポスは、のちに古代ローマで誕生する「グラディウス」と言う剣に大きな影響を与えました。
このように、西洋剣は中東やアフリカなどの古代世界とは異なる文化の中で変化していきます。その後、ギリシャを支配することとなる古代ローマの時代には、さらなる剣の発展が待っているのです。
紀元前753年、イタリア半島中央部に位置するティベリス川(現在のテヴェレ川)の畔に、都市国家ローマが誕生しました。建国時、人口わずか数千人の小村だったローマは、約500年もの長い年月をかけてイタリア半島を統一し、やがて地中海領域を支配するほどの大帝国へと成長していきます。
小さな都市国家だったローマが広大な支配地域を持つに至ったのは、数々の戦いをもとに武器の改良を行ない、高精度な武器を携えていたからだと考えられます。強大な軍事力を誇る古代ローマ軍の剣とは、一体どのような物だったのでしょう。
領土を拡大し、勢力を伸ばしていった古代ローマは、紀元前264年、地中海貿易で栄えていた巨大国家カルタゴ(現在のチュニジア共和国付近一帯)とシチリア島をめぐってポエニ戦争を繰り広げます。
100年以上続いたこの大戦争の中で、古代ローマ人は中央アジアから西洋へ進出していたケルト人(古代ローマではガリア人とも呼ばれていた)と遭遇します。その際、ケルト人が短い剣で戦っている姿を見た古代ローマ人は、これをヒントにグラディウスと言う剣を開発しました。ラテン語で「剣」を意味するグラディウスは、それまで古代ローマ軍の主要武器だったギリシャ発祥の長い剣に変わって、古代ローマ時代を代表する剣となっていきました。
古代ローマ軍の歩兵用に開発されたグラディウスは、全長50~70cmほどの短い剣ですが、肉厚で幅広な両刃の剣身がどっしりとした印象を与える作りになっています。
さらに特徴的なのが、剣身の材質に炭素が多く含まれる銑鉄(せんてつ:粗製の鉄)と、炭素をほとんど含まない軟鉄の合金が用いられていることです。硬く割れやすい性質の銑鉄に、やわらかく伸びやすい性質の軟鉄を混ぜることで、頑丈な上に粘り強さのある剣身を作ることができたのです。当時はまだ青銅製の武器が主流だったため、古代ローマは製鉄において最先端の技術力を持っていたことが分かります。
また、ヒルト(柄)部分はシンプルなポンメル(柄頭)とガード(鍔)、円柱形のグリップ(握り)で、木や象牙、骨などで作られていました。グリップには握りやすいように指を置く筋状の隆起があり、強く振り回しても滑らない工夫が施されていました。このように、グラディウスは古代の剣とは思えないほどの高いクオリティーで製造されていました。
古代ローマ軍の歩兵は、密集陣形を組んで大勢の兵士が固まって攻撃する戦術を取っていたため、敵と味方が入り乱れる接近戦では槍や長剣などの武器は威力を発揮できませんでした。そこで、グラディウスのような小ぶりな剣を用いることで、兵士同士の肩が触れ合うほど密集した戦いでも、味方を傷付けずに攻撃に集中できるようになりました。
また、歩兵達はグラディウスを接近戦で有効的に扱うために、腹部をめがけて強い力で水平に突く特訓を積んだそうです。そして本来、剣は体の左側に装着するのが基本ですが、古代ローマ軍の兵士達は右側に1mを超える大きな盾を持っていたため、体の右側にグラディウスを装着し、右手で剣を抜いて戦う訓練も行なっていました。この戦闘スタイルは、イタリアで発見された壁画や石柱から明らかに。
剣闘士=グラディエーターの語源にもなったグラディウス。古代ローマ軍の強さを象徴する剣として、西洋剣の歴史にその名を深く刻みました。
地中海世界を征服したローマは、都市国家から領域国家へと発展し、ローマ帝国として一代国家を築き上げました。
紀元前27年になると初代ローマ皇帝アウグストゥスの誕生により、皇帝が統治する帝政時代へと突入します。それに合わせてローマ軍の武器は、少しずつ変化が見られるようになっていくのです。
帝政ローマ時代になると、古代ローマ軍の武器に長剣「スパタ」が導入されました。この剣は、歩兵用に開発されたグラディウスの代わりに、主に騎兵用の剣として広く使われるようになり、グラディウスと同じく古代ローマ軍を支える武器として戦場で活躍しました。
スパタの全長60~80cmほど。剣身が真っ直ぐで、小ぶりなグラディウスよりも長く作られている分、剣幅は細く厚みも抑えられています。それ以外の形状は、鋭い切先やヒルト(柄)部分も含めてグラディウスとほぼ同様だったため「片手でも扱いやすいように軽量化されたグラディウス」と言う見方をされていたようです。
帝政ローマの幕開けから、さかのぼることおよそ30年。当時、イタリア半島北部に居住していたケルト人一派をガリア人と呼び、彼らの居住地をガリア地域と呼んでいました。
紀元前51年、古代ローマ最大の偉人と称されるガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の征服によってローマ帝国の支配下へおかれたガリアは、次第にローマと同化していきます。
このことから、帝政期に編制されたローマ軍には多くのガリア人が兵士として採用されたと考えられており、彼らがスパタをローマ軍に持ち込んだことが起源ではないかと言われているのです。
また、スパタと言う名称は、もともとギリシャ語で「つぼみ」や「包葉」を意味する言葉が語源となっており、現在のイタリアではこのスパタが語源となった「スパーダ」が剣と言う意味の言葉として使われています。
帝政時代の後期になると「3世紀の危機」と呼ばれる大規模な動乱がローマ帝国を襲いました。この混乱を静めるために、当時の皇帝・ディオクレティアヌスは、大きな軍事制度の改革を行ないます。この改革を受けてローマ軍は騎兵を中心とした部隊が再編成され、それをきっかけに、歩兵用の剣にもスパタが採用されるようになっていきました。それまで歩兵の主要武器であったグラディウスが3世紀頃を境に徐々に戦場から姿を消したのは、このような改革で騎兵中心の軍隊へシフトしていったことがきっかけだったのではないかと思われます。
こうしてスパタは、グラディウスに代わって古代ローマ軍全体の主要武器となり、時代を象徴する剣として、その後の西洋剣へも多大なる影響を与えていきました。
古代ローマ軍の兵士達は、グラディウスやスパタといった剣の他に、主に投げ槍などの投擲武器(とうてきぶき)を戦場で用いていました。
しかし、剣や槍は戦闘中に刃こぼれや破損が頻繁に起こるため、主要武器の他にも、いざと言うときのための「予備武器」を全兵士が装備していたと言います。
今回は、ローマ兵士が予備武器として携帯していた短剣についてご紹介していきましょう。
古代ローマ軍の全兵士が、キングルムと言う腰のベルトに装着していた「プギオ」。この短剣は、古代ローマにおいて最もポピュラーな補助兵器として扱われていました。
全長およそ20~30cmと小型な剣ですが、両刃の剣身は5cm以上と非常に幅広で、中央部分が膨らんだ「木葉型」と言われる特徴的な形状をしています。鋭い先端が刺突攻撃に向いており、補助兵器としてだけでなく、とどめの一撃を加えるためにも使われていました。ヒルト(柄)は2枚の金属板で形成されており、間に剣身をはさんで鋲で固定するグリップ(握り)が主流でしたが、のちに金属の加工技術が発達すると、鋲を打たずに作られたプギオも登場しました。
また、プギオと言う名称は、インド・ヨーロッパ語族の言語である「peug」=「刺す」と言う単語や、ラテン語で「拳」と言う意味の「pugnus」が語源となったと考えられています。そして「pugio」は、イタリア語の「pugnale」となり、現在も「短剣」と言う意味で使われています。
プギオは、戦場だけでなく兵士達の日常生活や、軽作業などにも広く活用されていました。当時のローマ軍兵士達は戦闘だけでなく、陣地における施設の建設や新しい武器の制作など、あらゆる業務を任されていたようで、こうしたときに軽量で扱いやすいプギオは重宝されていたのです。これはネパールの有名な「ククリ」や、西洋の「ダガー」と言った刃物(小型武器)と同様に、携帯用ナイフとしての役割を持っていたと考えられます。
さらにプギオは、初期のシンプルなデザインから次第に変化していき、ポンメル(柄頭)や鞘に華やかな装飾が施されるようになっていきました。このような変化が起こったのは、プギオが単なる武器としてだけではなく、所有者の階級や権力をあらわす象徴としても用いられるようになっていったからだと伝えられています。
古代ローマの最も偉大な英雄ガイウス・ユリウス・カエサルは、共和制ローマの時代に絶対的な指導者として君臨し、独裁政治を行なおうとしたことで共和主義者達に暗殺されてしまいます。このとき、カエサルを殺すために反逆者達が懐に忍ばせていたのがプギオでした。反逆者の中に愛人の息子であるブルータスがいることに驚いたカエサルは「ブルータス、お前もか」と、叫びながら死んでいったと言います。シェイクスピアの戯曲でも有名なこの名言の誕生時に、プギオがかかわっていたとは驚きです。